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2017年07月11日

「義経号」によせて…人生の旅立ちの際に感じた母の愛<市田ひろみ 連載16>

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中国上海で小学校時代を過し、1945年以後、京都の人となり、1968年以後は世界の衣装の研究者として、世界をめぐる。きっと神様は、私を旅人として育てて下さったのではないか。

 

京都に、鉄道博物館が出来た。京都駅の西側に、日本最大の博物館だ。

私の記憶のどこかに眠っていた、50を超える機関車や汽車が並んでいる。鉄道ファンにもたまらないだろうが、誰でもいくつかの思い出を持っているのではないか。まして、煙をはきながら走る機関車は、日本の原風景だ。

 

私にも、いくらかの思い出がある。

上海から帰国した私達に住む家は無く、母のふるさと、大津・膳所の祖母の家に身をよせた。

東京から帰って来た家族など、30人位、奥の間にざこねをしていた。

祖母の家は農家で、広い畑のむこうを東海道線の汽車が走っていた。夜中、しんと静まりかえった畠に、汽笛が響く。今でもSLの汽笛を聞くと、胸がつまる。

 

こんなこともあった。

昭和35~36年だろうか。大映の女優として、京都の時代劇から、東京の現代劇に転籍になった。

そしていよいよ家族と別れて東京へ。

たぶん、夜行列車だったと思うが、当時は誰かが旅行するとなると、家族や親戚が駅へ見送りに来る。その日も母が荷物を持って、見送りに来ていた。

列車の窓をあけて、見送る人、見送られる人がしゃべっていた。二等車で、2人ずつ4人掛けの席に、すでに男性が座っていた。

母は私の席の前に座っている青年に、

「この子は1人で東京へゆきますので、もし、なにかあったら、よろしくおねがいします」

と頭をさげた。私はちょっと恥ずかしかったけど、たのまれた青年も身をかたくして頭をさげた。

やがて列車は静かにホームをはなれた。

青年は静かに窓をしめた。

駅舎の上の、深い藍色の空に、満月がひときわ大きく照りはえていた。

 

後年、おたがい社会で活躍するようになっていた。そんな日、ある会議で、京大のY教授が、私のところへ走って来た。

「昔、あなたが東京へゆく時、京都駅で、娘をよろしくとたのまれたのは、僕なんですよ。あなたが映画に出るようになって、いつかお会いした時、このことを言おうと思っていたんですよ。きれいなお母様でした……。あなたの人生の旅立ちだったのですね」

Y教授は、長い間、心の中に秘めていたことを、とめどなく語りつづけた。

「それにね、あなたの横顔がイングリッド・バーグマン、わかります?(誰が為に鐘は鳴る)瞬間、あっと思ったんですけど。勿論、誰にも言いませんけどね……」

とめどなくつづく。

 

Y教授はともかく。寝台車でもなく、夜行列車であったことはたしか。一体、何型で行ったのだろうか。

明治5年、新橋~横浜間に初めて汽車が走って、それから新幹線まで…日本の汽車は、最高の技術で進化をしてきた。

仕事の旅も、遊びの旅も、JRはおもてなしとともに、夢や希望をつないで来た。

とりわけ私は「義経」号のファン。1880年(明治13年)から130年、最高齢のSLだ。

どこから見てもエレガントで、素敵な義経は、見事にこの居場所で出直して、大勢の人をたのしませている。(老友新聞社)

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市田 ひろみ
  • 服飾評論家

重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。

書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。

テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。

二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。

現在、京都市観光協会副会長を務める。

テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。

著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。

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