コラム
玉木正之のスポーツ博覧会
大谷翔平選手「50本塁打・50盗塁(フィフティー・フィフティー)」の歴史的価値とは?
1919年NY(ニューヨーク)ヤンキースのベーブ・ルースが29本塁打、翌年に54本塁打を記録するまで、ホームランは記録にすら残らず、誰も注目しなかった。それは外野手の間を抜けた打球が転々と転がる間に打者が本塁まで駆け抜けるランニング・ホームランがほとんどだった。が、ルースは打球を高々と空高く打ち上げ外野の観客席に打ち込んだ。
その空高く舞いあがる一打に観客は大喜び。しかし守旧派の野球ファンは激怒。NYタイムズは「野手が手を伸ばしても捕れない打球を打つのは卑怯」と大批判した。
日本でも65年に野村克也選手(南海)が三冠王を取ったとき、戦前は記録にも残されなかった本塁打数を調べ直すと、38年秋のシーズンに中島治康選手(巨人)が本塁打数+打点数+打率でも1位だったことが判明。野村の三冠王はプロ野球史上2度目の三冠王と認定されたのだった。
盗塁の記録も興味深いエピソードが残っている。野球が生まれた19世紀中頃のアメリカでは、次の塁を目指す走者はベースの前でスピードを緩め、立ったままベースを踏んだものだった。が、1866年にR・アディという選手が現れ、ベースの直前で体を倒して滑り込むスライディングを始めたのだ。
これによって盗塁の技術が進化したが、日本では1911年(明治44年)に東京朝日新聞が野球を非難する野球害毒論を展開。五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造が、野球は「ベースを盗もうとする賤技(卑しい遊び)」だと断定した。
ホームランも盗塁も、野球の初期は批判する人が少なくなかったが、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手は、大リーガー初の「50本塁打50盗塁」を記録して大絶賛された。時代が変わると価値観も評価も変わるものですね。
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