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コラム

2017年03月01日

記憶を無くしても「市ちゃん」と呼んでくれる~それは私じゃないの…でもありがとう<市田ひろみ 連載12>

その日は特に暑い日だった。
京都嵐山の松尾大社は、蝉の声がさらに暑さに拍車をかけていた。

私は、白地に藍の茶屋辻模様のきものを着て出かけた。
その日の対話のお相手は、元・京都大学総長、現在京都造形芸術大学学長の尾池和夫氏だ。
他愛ない季節の話題のあと、先生は小さなメモを渡してくれた。

麻衣(あさぎぬ)に酒をたしなむ佳人かな   和夫

先生が俳人であることはよく知っているが、今日の2百人からのお客様の中で、きものは私一人。
麻衣は夏の季語。私のきもの姿を、先生はさりげなく俳句の中にこめてくれたのだ。
こんなにも嬉しいことはない。しかも、見事に出会いの瞬間が生きている。
私の宝物だ。

宴もたけなわになった頃、お客様の中の一人の女性が、私たちのテーブルにやって来た。
一枚の写真を見せて
「先生、わかりますか?」
そこには、50年前の私と、由美ちゃんが写っている。
「あっ! 由美ちゃん」
昭和32年頃の写真だ。二人とも時代劇の町娘の扮装だ。若い。特に由美ちゃんはべっぴんだ。
「いやー、由美ちゃんは元気ですか?」
「いやー、私のいとこですけど、今は施設にお世話になっています」
「お見舞いにゆきますわ」
「いえ、だめですの。私が行っても、わからないんですよ」

由美ちゃんとは、私が昭和33年にデビューするまでの1年間、大映京都で一緒だった。
女優になったものの、まだまだ大した役も頂けず、お互いつらい、情けない思いをなぐさめあっていた。
何故か由美ちゃんは英語が出来たので、
「あんた、アメリカ行ったらどうや」
などと途方もない冗談。何のあても見つけられない、むなしい会話。

その人は由美ちゃんの近況を語ってくれた。
「市田先生の事が大好きだったんですよ。『いまも市田先生はうちらの誇りや』と言っていました」
「市ちゃんは、うちらの誇りや」
「市ちゃんは、かしこいんやでー」
「市ちゃんは、やさしいえー」

逢えなかった半世紀のことは、くわしくは知らないが、小さなスナックで、元気で働いていたらしい。
大映女優のころの友達で、消息のわかっている人も、わからない人もいる。
その点、年賀状が来れば、ああ、元気なんやと消息がわかる。
もう今になれば、こわかった先輩も、優しかった人も、成功した人も、みな戦後の時代、映画史の一頁にのこる人たちだ。

由美ちゃんは、過去の記憶のすべてを忘れて、施設で元気に暮らしているそうだ。
「でも先生、テレビにきもの着たタレントが出てくると、大きな声で、『みんな、みんな来て。市ちゃんが出てはる』由美ちゃんは誰がきもの着てようが、きもの着た人はみな市ちゃん。この間も、大さわぎしてテレビの前に集合かけはったけど、画面に映ってたのは名取裕子さんだった」

「市ちゃん。きれいやろ?」

そりゃそうだ。写っているのは名取裕子さんだもの。
でも由美ちゃん、ありがとう。

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市田 ひろみ
  • 服飾評論家

重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。

書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。

テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。

二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。

現在、京都市観光協会副会長を務める。

テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。

著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。

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