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コラム

2021年11月22日

第47回 飫肥城~南国の悲愁の城~

所在地=宮崎県日南市飫肥10―1―2
種 類=平山城
別 名=舞鶴城

今の季節は城巡りには向いていません。特に山城は暑さと日焼け、熱中症の危険、虫刺され等、厳しい条件が揃っています。それでも、暑さに負けずに行ってみたいと思う城もあります。それは城のある街の風情に心惹かれるからだと思います。

宮崎県南部の日南市にあるオビ杉の産地で有名な飫肥は、戦国時代に薩摩の強豪島津氏と戦いヒケをとらなかった伊東義祐の居城があったところです。義祐は日向から大隅にかけ名を馳せて、更に南下して島津と戦い所領であった飫肥城を奪い居城としました。

この時代、島津勢でも恐れた伊東勢は勢いに乗り、木崎原の合戦でついに島津勢を打ち破り更に進撃しようとしていた元亀3年(1572年)、南国の太陽が照り付ける暑い夏、甲冑を脱いで川に飛び込んでいたスキを突かれ、島津勢に奇襲されて飫肥城は略奪されてしまいます。しかしその後、義祐の子の祐兵が豊臣秀吉に見出され旧領の飫肥に大名として取り立てられたのです。

関ケ原の戦い後は徳川より領地を安堵され、貞享3年(1686年)からの大改修で飫肥城は近世城郭としての体制を整えました。

「悲愁の城」の惨状

悲愁の城と言われる所以は、島津勢に奇襲され逃げる際に、
「中にも足弱の女中達は、とてもついていけぬと覚悟して、道ばたに自害するもの数知れず、別れを惜しんで、叫び合う女達の悲しい声が、谷々に木魂する哀れさ、物凄さ」
という惨状が史書に残っているからです。

飫肥杉と融合し風情ある城内

お城は西から南に流れる酒谷川を堀として、本丸、中の丸、松尾の丸など多くの曲輪に分かれ、標高20~30mのシラス台地にありましたが、明治6年に全ての建物が取り壊され、昭和53年に大手門、54年に松尾の丸御殿が再建されました。主な見どころは、本丸、中の丸、松尾の丸、石垣、堀、土塁で、再建された大手門、松尾の丸に残る苔むした石垣などが、現在城内にある飫肥杉の木立と融合して、なんとも言えない風情をかもし出しています。

再建された大手門

飫肥城近くには、天正時代にローマに派遣された少年使節団の正使、伊東マンショの母親の墓が残っています。また、明治の外交官だった小林寿太郎の誕生地もあり、中央に美しい川が流れ、懐かしい風雅な趣が漂う街です。

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