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コラム

2021年09月09日

第46回 大洲城~戦乱に耐えた城~

所在地=愛媛県大洲市大洲903
種類=平山城
別名=大津城/比志城

昭和40年頃、大人気でしたテレビドラマ「おはなはん」がありました。苦難に負けない主人公の女性が明るく生き抜く物語で舞台は愛媛県の大洲市。今も、おはなはん通りがおっとりと当時をしのばせ、懐かしい昭和の風景がひろがっています。

商店街を抜けると肱川の向こうに天守閣らしきものが見えてきます。ここが大洲城です。

流に身をせり出すように建つ城

四重四階の連結式天守
肱川に突き出す近世最古の築城様式

源平の時代、河野道信がここに館を構えたのが始まりで、14世紀に宇都宮氏の居城となり、豊臣秀吉の四国平定後は戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と城主が入れ替わり、大阪夏の陣の後、加藤貞泰が入封し明治維新を迎えました。

肱川の流れを利用した広大な内堀と外堀が城内を巡り、川に突き出す地蔵ヶ嶽に戦乱に耐えうるものとして近世の築城様式のうち最古といわれている城が築かれたのです。城址の山から見下ろす川の流れは優しく抒情的な曲線を描いていますが、戦乱時にはどれだけの血が流れたか解りません。

明治に消えた城

山頂の本丸跡は多聞櫓に囲まれ、四重四階の層搭型天守が復元されています。台所櫓、高欄櫓とL字形に多聞櫓で連結した「連結式天守」と呼ばれ、それは見事な眺めです。川の向こうに見えた天守閣らしきものは苧綿櫓という櫓で、なかなか風格のある白亜の二層です。

明治維新後に壊されるまでの大洲城の天守閣を幕末の頃の写真で見ると、四層四重の堅固な姿で、目の前の清流に身をせり出すように建っています。

現在の大洲市内には、城と名のつくものが70近くもあったそうです。このことからも栄枯盛衰の戦乱期、この地における様々な激しい戦いと、長い時間を耐え抜いた数々の城が明治になって消え失せたかと思うと、ただただ虚しさを感じます。

《人柱伝説》
川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となり、籤によって「おひじ」という若い女性が選ばれ、おひじはやむなく生き埋めにされ人柱となった。その後、工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより、大洲城下に流れる川を肱川と名付け、大洲城を「比志城」とも呼んだという。

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