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コラム

2020年07月29日

第40回 「田辺城」~細川幽斉親子ゆかりの城

所在地 京都府舞鶴市字南田辺15―22
種類 輪郭式平城
別名 舞鶴城

信長から丹後与えられ築城
三成に留守を襲われ開城

日本の城の雅称の一つ「舞鶴城(まいづるじょう/ぶかくじょう)」は全国に16城もあるといわれています。その中から今回は「引き揚げ船の町」として知られる舞鶴にある田辺城をご紹介します。

天正6年(1578年)から8年にかけ、細川幽斉、忠興親子が織田信長から丹後一円を与えられ築城されました。天正10年、本能寺で信長を倒した明智光秀の呼びかけにも、親子は丹後から離れず、忠興は妻のガラシャを三戸野の山村に幽閉して秀吉への忠義を誓いました。
関ケ原の戦いが迫る慶長5年(1600年)7月、忠興はガラシャを大阪の邸に残し德川軍とともに上杉討伐へ向かい、幽斉も不在だったその留守に挙兵した石田三成は、ガラシャを自害させて田辺城を攻めたのです。
西軍1万5千の大軍に対し細川勢はわずか500余人。それでも速成訓練などを重ね50余日、篭城の後に開城となってしまったのです。

親子の築いた田辺城は、東に伊佐川、西に高野川、南に湿地帯、北には海がある要害の地です。寛文9年(1669年)の普請の時の記録では、城の規模は今の西舞鶴の市街地の半分ほどで天守閣はありませんでした。
忠興は関ケ原の戦功で豊前小倉に移封となり、後に信州飯田から京極高知が入城。高知の遺命で丹後は長男高広、次男高三、養子高信と三分され、京極氏三代目の時に但馬豊岡へ移封となり、その後、京都所司代だった牧野氏が入城し10代200年続いた後、廃藩置県により城は取り壊され、堀も埋められて、残ったのは心種園と石垣だけになってしまいました。

いにしへも今もかはらぬ世の中に
心のたねを残す言の葉

これは幽斉が「古今伝授」の書類に添えて智仁天皇に贈った歌です。都市公園になっている城址の一部の心種園の名前はこの歌から付けられています。
幽斉が城を出て亀山城に引き揚げる時、庭の松の木のわきに「古今伝授玄旨」と木札に書いて残した松が「古今伝授の松」。初代の松は落雷で枯れてしまい、現在は5代目です。

田辺城址は駅から近く舞鶴公園として整備され、無料で見学出来る田辺城資料館は写真撮影も可能。二重櫓は彰古館として再現され、城の門では「ゆうさいくん」が出迎えてくれます。

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