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コラム

2022年08月04日

「湖南戦線を征く その1」~本紙読者投稿より

昭和19年4月25日、我々独立歩兵第54大隊は京漢線打通作戦に参加の為、蕪湖に集結して行動開始をした。

敵を排除しながらの行軍、5月27日には黄河の鉄橋を敵飛行機の爆撃を避け、大急ぎで渡る。

5月31日、一面の黄河の砂漠地帯へ。ナツメ林が続いており、この付近は春秋時代から良く知られた所である。

6月9日正午頃、冷飯店にて、第55大隊が譚庄城の敵と交戦中との報告を受けた。旅団長は戦闘司令部を城の正面300メートル付近に進め、作戦指揮をとった。

夕刻になると第55大隊長は軍刀を手に突撃命令を下した。直後、敵弾を受けて壮烈な死を遂げる。旅団長の命令で第4、第5中隊は右翼に散開し、攻撃前進をした。敵の集中砲火は衰えず、多くの死者、負傷者が出た。

敵前100メートルに散開したまま、夜間攻撃を中止し、払暁(夜明け時の)攻撃を敢行することに決定。しかし敵は夜間のうちに逃走していた。

部隊はさらに南下を続け、6月22日、約1か月で600キロを踏破、大別山麗の信陽に到着した。信陽から夜行列車で漢口に到着。町の一角は敵機の爆撃で激しく燃えていた。

6月27日、部隊は長沙に向かう。敵機の空襲を避けて夜行の連続である。炎暑が続き、食料もひっ迫し、汚れた水を飲んでマラリア、赤痢患者が増え、薬物の補給も無く、犠牲者が続出した。

南下するにつれて敵機の攻撃が頻繁となる。周辺に隠れている友軍はかたっぱしから銃撃され、自動車がいたるところで焼けただれ、残骸を晒した。

敵機から逃れながら、蒸風呂のような地獄道を只黙々と歩くのであった。
(香川県 K・Y)
 

 

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