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コラム

2022年02月08日

「恐ろしい爆撃の記憶」~本紙読者投稿より

 大東亜戦争も末期の昭和19年。赤紙の徴用令によって私は大刀洗飛行機製作所に召集された。

輸送課に配属され、資材の発送、受取の仕事のため、連日大刀洗駅と製作所の間を何回となく往復したものである。

 当時製作所では何千人もの工員が夜を徹して働き、1か月に練習機が8台完成していた。出来上がった飛行機は飛行場裏口から入庫していた。戦も段々と烈しくなり、警報も頻繁に発令され、仕事もはかどらなくなっていた。
 昭和20年3月27日、大刀洗飛行場爆撃の時が来た。空襲警報の時はすでにB29の大編隊は東方の空に白く小さく輝いて見えた。
 一目散に走って近くの森の中に逃げ込んだ。爆音が頭上に来た矢先、シュルシュルと異様な音がしたとたんに耳をつんざく爆雷音……。体が何度も中に浮き上がる。一緒にいた動員学徒があまりの恐ろしさに大声で泣き叫んだ。

 B29の波状攻撃が何回も続いて、やっと爆音が去り、恐る恐る飛行場の方を見ると蒙々とした土煙の中、真っ黒い煙と火柱が何本も上がっており、体中が震えた。自分を失うようなあの恐ろしさは、今になっても忘れることができない。

 そして三日おいて31日、今度は製作所が爆撃の的となり、軍都大刀洗一帯は完全に潰滅した。爆撃の翌日から軍用トラックに箱詰めされた死体がどんどん運び込まれて、とある森の中で何日も何日も煙を上げてだびに付された。

 現在筑前町バイパス通りには合同慰霊塔が建立され、無名の何百という霊が合祀されている。鎮魂の碑に刻まれた
「大義に殉じ 散華されたみ魂よ 親族同胞に思いを馳せ 故郷の空を夢みて切なくも茲に眠る 永久に安かれ」
 と。静かに合掌した。

 一時、大刀洗周辺は道路一杯に通勤者、軍属があふれていたのに、急に廃墟となった。
 私は、今度は赤紙の召集令状と共に宮崎県日南海岸で敵前上陸した戦車めがけて手榴弾を投げ込む訓練ばかりしている中に終戦となった。
 すぐそこの大刀洗で、こんな悲劇があったことを知る人はだんだん少なくなってきているが、私はこの大刀洗爆撃を決して忘れることはできない。
(福岡県 K・K)

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