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2018年07月03日

富士の山開きと「富士講」~江戸からの富士信仰 連載27

江戸の町では、ちょっと坂を上って少し高い所に行けば富士山が眺められたので、富士は人々の生活の一部大変身近な存在であったようです。今でも東京には「富士見」「富士見坂」という地名が各所に残っています。

「富士講」という、集団で富士の登拝する習慣が盛んになったのは江戸時代後期享保になってからのことです。もともとは長谷川角行という修行者が始めたといわれていますが、ブームの先駆けとなったのは「霊峰富士」に登拝すれば身分、年齢、男女問わず救われるという教えを説いていた伊藤伊兵衛という人が「入定」という断食を富士山中で行い、悟りを開く修行の途中に亡くなったことによります。

 富士信仰では「男女にかかわらず…」といわれていましたが、やはり当時、「霊山」と呼ばれていた富士ですから女人禁制という考えもあり、女性が登ることに対しては随分と世間では風あたりが強かったようで、四合目の浅間神社までとされていたそうです。それでも今と違って登山靴や登山用品のない時代、草鞋と杖だけで登っていくのですから、かなり足腰も強く体力がある人だけに限られたことでしょう。

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「富士塚」の存在

実際の記録はありませんが、どの位の人が頂上まで辿り着けたのでしょう?
そこで、体力に限りがある人や女性でも、富士の登りご利益を受けられるように造られたのが「富士塚」というわけです。これは「リトル富士」のようなもので、実際に富士から運んで来た溶岩を積んで、富士信仰が盛んな地域に作られたとされています。

今、私の住んでいる近所、お稲荷さんの奥の院、さらに奥にはこの「富士塚」が存在します。やはり溶岩で出来ていて、階段を上ると小さな祠が祭られています。子供の頃はこの「富士塚」をよじ登ったりして格好の遊び場にしていました。江戸の人が見たならば嘆いたことでしょう。

江戸時代に造られた姿を残している数少ないものの一つに、台東区の小野照崎神社の境内の「下谷坂本富士」が現存しています。富士講はなくなりましたが、山開きには今でも氏子の人々が「富士塚」に登りお祓いをしています。

さて、山開きは6月1日(現在は7月1日)です。江戸でも各地に造られた「富士塚」で山開きが行われていました。白や揃いの衣装に身をつつんで登り山頂でお祓いを受けるのが習しでした。その日は近くの農家が作った麦わら蛇が売られ、病除けとされて沢山の人々が買い求めたそうです。この麦わら蛇は今でも山開きの日に浅草の浅間神社で配布されていると思います。

昭和になってから「富士塚」が壊されたり、登山が禁止された所が多くなり、また講に参加する人も減り、「江戸八百八講」とまでいわれた「富士塚」も続けているところはほとんどなくなってしまいました。けれども、こういうものがある……という事実は、レジャーとして登山を楽しむためにも、次の世代へ伝え残して行きたいと思います。(老友新聞社)

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酒井 悦子
  • 伝統芸能コーディネーター / 筝曲演奏家

幼少より生田流箏曲を学び、現在は国際的に活躍する箏演奏家。

箏の修行と同時に、美術骨董に興味を持ち、古物商の看板も得る

香道、煎茶道、弓道、礼法などの稽古に精進する一方で、江戸文化の研究に励み、楽しく解りやすくをモットーに江戸の人々の活き活きとした様子と、古き良き日本人の心を伝えている。

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