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マコのよもやま話

マコのよもやま話 | 和泉 雅子

2023年02月08日

連載10 秘密の雲丹

「マコチン、もうじき遠軽に着くよ」と母の声。
「えーーー」なんとグッスリ寝てしまった。

はじめての北海道の夜行寝台列車。乗り鉄子、大大大失敗。車掌さんが「あと少しで遠軽ですよ」と、ちゃんと声を掛けてくれた。

オーバーコートを着て、午前4時、駅に降りた。寒い。慌ててスタッフの車に駆け込んだ。旅館で斎藤組と合流。なんだか全員ぐったりしている。行方不明になっていた手銭ちゃんの事を聞いた。

実は、こうである。手銭ちゃんはお酒が大好き。酔っ払うと店の赤電話から斎藤監督に電話するのが、長年の習慣とか。今日に限ってない。何時になってもない。何かあったと心配し、ジョーさん(宍戸錠さん)たち男性群は懐中電灯片手に、雪まみれになって探した、とか。女性群は夜中じゅう、泣きながらおにぎりを結んでいた、とか。なんと手銭ちゃん、電話をする前に酔い潰れ、居酒屋さんでグッスリだった、とか。もう、人騒がせの手銭ちゃん。チョメ。

いよいよ全員バスで、遠軽から網走へ。北海道に着いて、ずうっと夜だったので、はじめて見る雪景色。全部真っ白で、空からペンキを垂らしたようだ。真っ直ぐな道、ポツン、ポツンとお家。絵本を見ているようだ。バスが網走の旅館に着いた。

ジョーさんが現れると、旅館の人やファンが「キャー」、松尾嘉代ちゃんも「キャー」。私、ミルキーの大きな箱をぶらさげて「こんにちは」。全員「子役じゃないのかい」との歓迎。ジョーさんの相手は嘉代ちゃんだと思っていたらしい。

しばらくして、この子役が相手役だと分かり、アッと言う間に網走中に知れわたった。相手役といっても、ジョーさんと流氷をバックに雪原を旅し、途中で病気になり亡くなってしまう。つまり後半は死体の役であり、マノン・レスコーよろしく、ソリに載せられ雪原を行く話。でも、この不思議な流氷が気になって、撮影中なのに気もそぞろ。集中できない。

いよいよ亡くなる場面。抱き起こされて、雪の上で演技をしていたら、昼食になった。今日のロケ弁は、駅弁だった。時々大きな鍋に豚汁、おにぎりなんて昼食もある。道路からロケ現場まで距離があるため、雪の上でのお昼となる。食べ終わると、リンボーダンスが流行っていた。ころんでも雪で痛くないからだ。ずっと雪の上で倒れていたので、衣装のGパンがビショぬれ。バスまで戻っていたら間に合わない。

フッと見ると、あそこに小さな小屋が。しかもおじさんが小さな船を引き上げ、小屋に入っていった。「あそこなら、きっと、火がある」駅弁を持ったまま駆け出した。小屋の扉を開けると、やっぱり火を焚いていた。「おじさん、火にあたっていいですか。撮影でズボンがびしょびしょなの」「うん、いいべさ」ちゃっかりおじゃました。

おじさんもこれからお昼。アルマイトのお弁当の蓋を開けた。日の丸弁当だ。おかずは、と思っていたら、蓋に今穫ってきたばかりの雲丹を出している。おいしそう。目が点になった。「おじさん、この駅弁と、おじさんのお弁当、取っ替えっこしてくれませんか」「こんなんでいいのかい。ああ、いいべさあ」と、おじさんのお弁当をゲットした。おじさんも駅弁が珍しいのか、うれしそう。「うわあ、この雲丹、おいしい」とはしゃいでいたら、おじさん、いっぱい出してくれた。

死体のロケが終わり、さっそく市場へ飛んで行った。雲丹を買う。雲丹を食べた。アレ、おじさんの雲丹とは違う。これは、いつも食べてる雲丹だ。なんと、これがきっかけとなり、十年間雲丹が食べられなくなった。食べようとすると、あのおじさんの雲丹が蘇るからだ。いまだに、あまり食べられない。なぜって、あの秘密の雲丹が邪魔するからだ。なんとか秘密の部屋に、おじさんの雲丹を閉じ込めておくのだが、いざ食べようとすると、秘密の部屋の扉をこじ開けて、あのおじさんの雲丹が顔を出す。いまだに私、秘密の雲丹と戦っている、今日此の頃であります。じゃあ、またね。

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和泉雅子
  • 和泉 雅子
  • 女優 冒険家
  • 1947年7月東京銀座に生まれる。10歳で劇団若草に入団。1961年、14歳で日活に入社。多くの映画に出演。1963年、浦山監督『非行少女』で15歳の不良少女を力演し、演技力を認められた。この映画は同年第3回モスクワ映画祭金賞を受賞し、審査委員のジャン・ギャバンに絶賛された。以後青春スターとして活躍した。
    1970年代から活動の場をテレビと舞台に移し、多くのドラマに出演している。
    1983年テレビドキュメンタリーの取材で南極に行き、1984年からは毎年2回以上北極の旅を続けている。1985年、5名の隊員と共に北極点を目指したが、北緯88度40分で断念。1989年再度北極点を目指し成功した。
    余技として、絵画、写真、彫刻、刺繍、鼓(つづみ)、日本舞踊など多彩な趣味を持つ。
  • 主な著書:『私だけの北極点』1985年講談社、『笑ってよ北極点』1989年文藝春秋、『ハロー・オーロラ!』1994年文藝春秋。
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