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マコのよもやま話

マコのよもやま話 | 和泉 雅子

2022年08月05日

連載5 大工になりてえ

銀座の家は、いよいよビルデングの工事が始まった。思いのほか岩盤が深く、なんと、江戸時代の貝がらが出てきた。「江戸城の前から海だった」と自信満々に大げさな事を言う横町のご隠居さんの話は本当だったのかも。と、妙に納得してしまった。

鉄骨が立ち上がってきた。下にいる大工さんが、カンカンに焼けて真っ赤になったボルトを、長いトングでヒョイッと投げる。上の足場にいる大工さんが、熱に強いタモ網のような袋でそのボルトを掬いあげ、真っ赤なうちに鉄骨に打ち付ける。何時間見ててもあきない。まるてづまで手妻(手品)かサーカスを見ているようだ。かっこいい。憧れが沸き上がり「大工になりてえ」とワクワクした。なんとこのやり方は、東京タワーと同じだとわかり、ますます大工になることを決心する。

銀座のビルデングが完成した。地下2階、地上8階建てで、うちの近所では最初のビルデングだ。1階から7階まで、トッパンのデザインセンターが入居してくれた。1階は、外から見えるガラス張りの写真スタジオだ。おしゃれえ。エレベーターもある。すごいー。8階は、父の会社と父の大親友の太田さんの事務所と半分こっつ。太田さんは、ハワイアンバンドのバッキーさんやペギー葉山さんが所属する音楽事務所の社長さんだ。太田さんには娘のように可愛がっていただき、父亡き後は、本当の父親のように心配してくれて、困ったときは必ず太田さんが助けてくれた。ありがたい人だ。

柳家金語楼先生の金星プロに入ったころ、トッパンデザインセンターから、コマーシャルの依頼があった。子役の頃も、雪印の牛乳や白木屋や松下電器のテレビの生コマーシャルをやったことがあるが、さて、今度はなにかしらん。

なんと、埼玉銀行のカバーガールである。ポスターはもちろんのこと、入り口で等身大の私が「いらっしゃいませ」と迎える、あの看板もである。どうやら、大家さんのお嬢さんでいいよね、と決まったらしい。あの大工さん達が建てた1階のスタジオで撮影である。撮影そっちのけで隅から隅まで見てまわった。しっかりした作りで感激。当然この日の撮影は、最高の笑顔で写真に納まった。まだ12歳。幼かったので、髪型は夜会まきにして、キリリと見えるお化粧をしてもらった。これが大成功。その後、日活に入ってからも、テレビドラマや舞台で活躍しても、ずっと、カバーガールを務めた。

25才のころ、尾形君(緒形拳さん)と二人で撮影することになった。実は、尾形君を初めて見たのは、新橋演舞場の新国劇の舞台だった。父が辰巳柳太郎さんの大ファンで、小学生の私を連れてよく見に行った。これは只見ではない。父の奢りだ。念のため。その時、新人だった尾形君が、木に登り大きな声でせりふを言ったので、本当に驚き「この人そのうち凄くなる」と、お生な予測をした。

後に私、23才。NHKの大河ドラマで、なんと尾形君と共演した。『新・平家物語』だ。尾形君と私の役は庶民の代表のような役で、最初から最後まで出演した。大河としては珍しく、全出演者と共演した。そして、ラストシーン。スタジオいっぱいに吉野の満開の桜が広がり、その中でおじいさんとおばあさんになった二人が、しみじみと平家の人々を思い語る場面。これで一年間の『新・平家物語』が幕を閉じた。

学校の歴史の授業はチンプンカンプンだったが、この一年で平家の全てを体験して、ちゃっかり勉強してしまった。サービスセンターの1階のスタジオで撮影してから、16年。埼玉銀行のカバーガールを卒業した。

最近銀座は、建築ブーム。あちこちで建て替え工事が行われている。ふと、ボルトを投げ上げる大工さんを思い出した。

後期高齢の今、大工は無理。でも、大工になりてえー。せめてものがな。本物の刃がついたミニチュアの大工道具を集めている。くどい私。懲りない私。反省してます。じゃあ、またね。

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和泉雅子
  • 和泉 雅子
  • 女優 冒険家
  • 1947年7月東京銀座に生まれる。10歳で劇団若草に入団。1961年、14歳で日活に入社。多くの映画に出演。1963年、浦山監督『非行少女』で15歳の不良少女を力演し、演技力を認められた。この映画は同年第3回モスクワ映画祭金賞を受賞し、審査委員のジャン・ギャバンに絶賛された。以後青春スターとして活躍した。
    1970年代から活動の場をテレビと舞台に移し、多くのドラマに出演している。
    1983年テレビドキュメンタリーの取材で南極に行き、1984年からは毎年2回以上北極の旅を続けている。1985年、5名の隊員と共に北極点を目指したが、北緯88度40分で断念。1989年再度北極点を目指し成功した。
    余技として、絵画、写真、彫刻、刺繍、鼓(つづみ)、日本舞踊など多彩な趣味を持つ。
  • 主な著書:『私だけの北極点』1985年講談社、『笑ってよ北極点』1989年文藝春秋、『ハロー・オーロラ!』1994年文藝春秋。
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