コラム
母の荷物
ふと、手を休めて母がこう言った。
「わたしなあ、Tちゃんと結婚さしたげられへんで。可愛そうなことしたなあて……」
思いがけない言葉に私は言葉がみつからず、照れながらあわてて
「もう遠い昔の話やなあ」
と軽く笑った。
それにしても、もう半世紀も前の話だ。
◇
私とTちゃんは大学時代からのつきあいで、結婚を約束していた。とは言え、当時私達の結婚は引くもならず、進むもならずの状態で、暗礁に乗り上げていた。Tちゃんの父親の反対に直面していたのだ。
「女優やってるような女はあかん」(※)
「髪結いの娘なんかあかん」
「うちは皇太子妃に名前のあがるような家柄でないとあかん」
が口癖だった。
今は男女平等だし、職業に貴賤は無いけれど、半世紀前は肌でその視線を感じていた。
看護婦、運転手、女中、髪結い、役者、職人(伝統産業の、現在は伝統工芸士と言われている人達)など、いわれなき蔑視を受けた人もいたし、時代とはいえ、暮らしのレベルは口に出さずとも、子供心にも意識させられるものがあった。
私は母の美容室の「ロン美容室」(上海に暮らしていた母は龍(ロン)はおめでたい名前と説明していたが)という看板すらも恥ずかしいと思ったことさえあった。
しかし私の人生は、母の人生と同じ道を歩いてきたし、私たち兄弟を育ててくれた重さは深い。私達を育てるため、これからは女も大学へ行った方が良いと進学を勧めてくれたのも母だった。
母は朝・昼・夜働いて、私達子供を育ててくれたのだ。
母のきものの何枚かは、お米にかわった。
おばあちゃんからもらった二つのおにぎりを
「私はええし、あんたら食べなさい」
と、もらったこともあった。
中国上海に駐在していた父にかわって、小さくとも家と子供を守っていたのは母だった。
しかしTちゃんの父にとっては、髪結いや女優などは、まさに社会の表に胸張って出られる階級ではなかったのだ。
「髪結いの娘なんかあかん」
「女優やってるような女はあかん」
という軽蔑こそ、Tちゃんの父の結婚反対の理由だった。
今では考えられないことだが、母は自分の存在こそが破談の理由だったことをずっと抱いて来たのだ。
自分が職人ではなかったら結婚させてやれたのに。
母の九十五年の人生。重い荷物を背負い続けてきたのだ。
◇
日頃、ふれることも無かった遠い記憶だが、母が心にとめていた気持ちを思い切ってその本音を初めて語ったのだ。それは母なりの謝罪だったのだ。
よほど勇気のいるモノローグだったけど、私は母の愛の深さを受け止めた。
家族は、最後の味方だ。
母から受け継いだものは多いが、何といっても、子供の苦しみを共有してくれるのは親だ。
今はTちゃんも、母も、天国。
今の日本からは考えられないと思うが、昭和という時代の一頁。戦後二十年代は生々しく私の胸にせまる。どれだけの感謝をしても、親の恩に報いる、親の愛に報いることが出来ただろうか。
重い荷物が軽くなったのだろうか。
もうすぐ私も親の年齢になる。
(※)『手錠』(昭和33年)、『みだれ髪』(昭和36年)大映。
(本稿は老友新聞本紙2021年3月号に掲載された当時のものです)
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- 市田 ひろみ
- 服飾評論家
重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。
書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。
テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。
二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。
現在、京都市観光協会副会長を務める。
テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。
著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。
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